水が出てきたときの喜びは?

今年は例年より早く雨季に入ったのか?最近は毎日必ずと行っていいほど雨が降る。長いあいだ雨が降らない乾季で茶褐色だった大地が一気に緑色へと変わり、厳しい時期を過ごし乾いていた心も潤ってきたような感じがする。

今日は10月1日から始まったスンバワドリームハウス着工以来初めてのお休み。毎朝欠かさずの現場通いも行かずに朝からキース・ジャレット&チャーリーヘイデンのJAZZアルバムを聴きながら、久しぶりのゆっくりした時間を過ごしている。

こうやって休みの時間が出来ると、自分では気が付かないうちに、いつの間にかバリバリ仕事モードの自分に変わっていたことに気付かされる。コロナで18ヶ月の間、何も先が見えず無職を続けていたが、今日は約1ヶ月ぶりにオフの時間ができて嬉しく感じる。

こうやって自分自身を観察してみると、無職の時は「仕事したいと言い。」無職が終わり、ほんの1ヶ月仕事モードになっただけで、「休みは嬉しいね。」と感じる。人間はどんな状況下でも満足できず、「ないものねだりばかり」だなと。

さて、工事の方は着々と進んでおり、昨日は1週間ほど続いていた水源を見つけるボーリング作業で地下水を掘り当て、水の確保ができた。

どこでも水道水が当たり前に出てくると思っていた私にとって、地下水から水が出てきた事が非常に画期的な事に感じた。棟梁をはじめ現場で働く地元の人たちの顔を見ていても嬉しそうに見えたので、周りの人たちも私と同じ気持ちなんだろうと思う。

嬉しさなんて尺度で決めれないけれど、実は日々家が完成に向っていく姿を見ているよりも、この水が出たときのほうが喜びの度合いが大きかったのだ。

普通に考えれば家ができる方が嬉しいだろう。でも「なんで、家よりも水?」

多分それは人間の生命に必要な順番が関わっているのでは無いか? どんなに豪華な家があっても、水が一滴もない場所では暮らして行けない。と言うか生存出来ない。

家にお金、飯に服。色々と大切なものはあるけれど、人間が生き延びるために一番最初に必要な物、「それは水」。

だから「砂漠の中のオアシスのように。」水が出てきたときには、家が完成する以上の喜びを感じたのだろう。

これは人間の中に潜んでいる動物的感覚だと思う。