ハッピーホーム2人目のメンバーの到着を待ってます。

もうハッピーホームも完成してしまい、なんにもない荒野を一生懸命開拓していたのが過去の出来事の様に懐かしく思えるようになってきたこの頃。今まで1年間以上寝ているとき以外はハッピーホーム完成に向けて全神経集中させていたので、それが終わってしまい物事に神経集中していない今が酷くつまらない日々に感じている。

現在ハッピーホームのメンバーは私を除いて6人、その中で住まいがインドネシアの隣の国で比較的簡単に来れる浜さん以外のメンバーはまだスンバワに建てた新築の自宅を訪れたことがなかった。11月一日から日本ーバリ島の直行便が再開してバリ島ではG20の会議も無事に成功を収め、もうコロナ規制など昔の話になり欧米先進国に遅れながらやっと日本人もバリ島、海外に向けて動き始めた様に感じる。そして今日はやっと2人目となるメンバー服部さんが訪れる。

コロナ前の20年間は色々な人がsecret gardenに訪れ新しい人との出会い、常連さんとの再会など人との触れ合いが当たり前の感覚であった時には「人と会うのが疲れる。」なんて思う事もあったけれど、そんな機会も少なくなり、ハッピーホームも完成してしまい、ひと月以上単調で刺激がないお爺さんの隠居生活の様な時間を過ごしているので、今日服部さんが来るのが待ち遠しいくてたまらない。

家を建てるにあたり頻繁にやり取りをしていたので懐かしさがどこかに行ってしまったが、思い出して見ると服部さんと会うのは本当に久しぶりだ。10年以上前に別れた古い女房がいた時はsecret gardenによく遊びに来てくれていたが、もうすぐ6歳になるロブチェのお母さん、キキが女房になってから会ったか記憶が曖昧だ。少なくても7~8年、もしかすると10年近くは会っていないことになる。

もう20年近くは経つのだろうか?服部さんと初めてあった時地元北海道紋別の過疎地診療所に勤務をしていて毎日100kmを超える車通勤をしている話を聞いた事を鮮明に覚えている。それから何度か会ううちに、いつの間にか奄美大島に転勤していて現在は奄美を拠点としてたまに紋別の自宅にも帰省しているのをsns投稿で見かける。サーフィンができるから奄美の病院で仕事を選んだと思うが奄美と北海道それに加えてスンバワ、殆どの人が東京、大阪など都市園での生活を強いられている中、それらの場所とは無縁に人生を送っているのが凄いと思う。

服部さんのもう一つ印象深いエピソードがある。これも古い話になるがインドネシアの僻地にボランティアで診療に行った話も思い出す。このとき私はデザートポイントにサーフィンに行くためロンボク島の空港で降りてそこから車で向かう予定、そして服部さんはロンボク島経由で僻地からバリに戻るという事でお互いのフライト時間が近かったので「タイミングあえばロンボク島の空港で会えるかも?とメールのやり取りをしていた。」この時は結局会えなかったけれど。なんで会えなかったんだろうかと古い記憶を蘇らせて見ると、この時携帯を持って行動していたのか?ロンボク島は電波が悪かったのか?記憶にないが今のように携帯さえあれば簡単に待ち合わせができる時代や場所では無かった事を思い出す。

世間には数多くの色々なお医者さんがいるが、服部さんはその中でも珍しいタイプのお医者さんだ。以前他のハッピーホームメンバーの一人、ヨシさんと服部さんがたまたまsecret gardenのカウンターで一緒に居合わせたとき、私はカウンター越しにお互いの身の上話に混じらせてもらったが、ヨシさんが「服部さんは県で一年に一人しか受からない日本で一番頭の良い大学出身で、そこは学校行きながらお金ももらえるんだぞ。東大医学部出より凄いお医者さんだ。」と自分の様に自慢げに話をしていた。そんな天才医者なら大病院で研究に励めば医学界でも大成できたことだろう。しかし選んだ先は医学の世界に励んでいる人はいきたがらない奄美大島、そしてスンバワだ。

そう。服部さんは自分の出世などより先にサーフィンできる環境で選んでしまうのだろう。こういうのがまさに天才の選択なのだろうか?今日の夜ビールを飲みながらこの話を深堀していこうと思う。

ハッピーホームには後3時間ぐらいで到着する。服部家の掃除も済ませて、バリから送ったサーフボードにフィンとリーシュの設置もすみサーフポイントを回るための原付バイクの作動も確認。大した作業ではないけれど、人の為を思って行動する事は自分の心を落ち着かせてくれる。