スンバワ滞在が半年経って。

昨日のブログでも伝えたように、同じ場所に半年間も続けていると、よしも悪しも初めて感じたフィーリングは薄くなりその景色は日常となってくる。

晴れでも曇りでも嵐でも、人工物が極小で自然むき出しの姿を全身で感じれる「スンバワ良いなー。」と毎日感動できたが、何時の間にかそれも当たり前となってしまった。これに加えてもう一つ、始めスンバワに来た時に感じたのと、半年経った今と見える視線が変わったことがある。

バリ島はコロナで外部からの入国者が居なくなり、交通量も人の数もコロナ前の10分の1位と思えるほど激減したが、それでもスンバワの人口密度、交通量と比べるとはるかに量が多い。そんなバリ島から来た私達は「スンバワはどこに行っても人も車も少なくてのんびりしてて良いなー。」と感じてたんだけれど、なんだか最近ではそれが少しでも人が多い場所や、車やバイクと多くすれ違ったりすると、「この辺は人が多くて喧騒感あるなー。」と感じてしま様になってきた。

今日もまたヒマラヤの話をしてしまうけれど、ヒマラヤ登山のはじめは2800mの人間が普通に生活しているルクラと言う場所からのスタートでそこから10日ほどかけ標高5000mの登山口(ベースキャンプ)に徒歩で向かうのだが、その山行中まだ標高が低く人間が普通に生活できるような場所では、私好みのピアノjazzなどの曲を聴いたりして暇な時間を過ごしたりするのだが、標高が上がるにつれて人工物は少なくなり人間にもたまにしか会わないようになって行く。標高5000mのベースキャンプなんか陸の中の無人島のように登山者がいなければ人間も人工物も一切ない場所、そういう所で人里では心地よく聞いていたスローなJazzを聴くと、同じ曲でも違うように聞こえてくる。曲のテンポがやけに速く聞こえたり、スピーカーも所詮は人間が作った人工物、そんなスピーカーから聴こえてくる自然ではない電気の音が、雑音のように聞こえてきてしまうのだ。

普通にアスファルトの道がありその脇には家が立ち並び、当たり前に電気、水道が通り、車も電車も走っている。そんな様な場所で生活していると、スローなピアノJazzが雑音に聞こえるなんて理解出来ないとおもうが、自然と人工物(音楽も含めて)は正反対で自然100%のところに少しでも人間が手を加えた物があると汚く感じてしまうのではと思う。

だから人工物より自然の割合が多いスンバワの生活になれてきた私は、人間の集落や車、バイクの人工物に喧騒感を感じる様になったのかもしれないのかな?と過去の経験から分析している。

なんだかマニアックな話になってしまったが、殆どの人間は自然より人工物の割合が多い世界で生きているので、この様な感覚は理解し難いかと思うが。

何が伝えたいかとは言うと、「人間が少なく人工物が少ない場所ほど人間は気持ちよくなるんですよ。」と言う今日のブログでした。