お時間ある人是非読んでみてください。

すでに公開済みの前編からです。下記に後編も記載しているので読んでください。

前編

昨夜は21時になる前に就寝したので普段の睡眠時間7時間を足しても朝の4時。夜が明ける前から目が覚めてしまい寝床で明るくなるのを待ってから一番で波を見に行くと今日も先日同様のサイズで部屋の前に見えるレイキーピークとレイキーパイプは頭半からセットが入るとダブルぐらいはありそうな波が入ってきている。

いつもの朝のように山側からヒヤッとした空気が海方向に向かって吹き、押し寄せてくる波の上部からは後方に水しぶきが飛とんでいるのを浜からも確認できる。今日も丁度良い感じのオフショアーウインドだ。

干潮と満潮の差は昨日よりさらに小さくなり、その差朝と夕方で0,4mしか変わらない。こういう潮周りのレイキーピークは強いオンショアーさえ吹かなければ1日中GOOD WAVEとなる。

雨季から乾季に季節が変わる3月のスンバワでは時折雨が降る日もあるが前月に比べて晴天が多くなる。雨で空気が浄化された後の晴天の日は雲やダストなど太陽光線を遮るものが無く、ダイレクトに肌に照り付けあっという間に真っ黒に日焼けしてしまう。

今日みたいなGOOD WAVE日和には一日中サーフィンをしたい気持ちなのだけれど、先日のブログで少し触れたように私は人より眼球が弱いため日差しが強いこの季節に一日中サーフィンすると視力が悪化してしまうので、自分に合った波のコンディションの時間帯を選んで1ラウンド入るのみにしている。

そこで少し私の視力のことに関してのエピソードに触れたい。私は緑内障、白内障、翼状辺と3つの目の病気を経験している。これらの言葉を聞いても目が健康な人は白内障ぐらいは知っていると思うが、緑内障に翼状辺はあまり聞きなれた言葉でないかもしれないので説明したいと思う。

まずは認知度が高い白内障、簡単に説明すると字の通り景色が白っぽく見えたり光がまぶしく感じ、それが進行してくると霧がかかり曇りガラスのような視界になる。

次は翼状辺の説明をしよう、サーファーに多い目の病気で,目の表面、白目部分の角膜が黒目部分にかぶさってくる。かなり進行しないと視力や視界に影響はなく手術や治療をしない場合も多くある。

これら2つは紫外線が原因となり発病する可能性が高い病気のようだ。中学2年生から始めたサーフィンは中学卒業後から50歳の現在まで毎日ではないが年間250日間は軽くやっているので、これだけ長い間サーフィンに時間を費やしてきた代償かもしれない。

そして緑内障。白内障と頭文字一時違いだが病気の内容は全く異なる。目の視野が欠けていく目から脳へとつながる神経の病気。失明の確率は一番高い病気で病状は元に戻ったり良くなることは無い。一度この病気にかかると悪い方向に進行するのみという恐ろしい病気だ。

私が30代後半のまだGLANDやロンボク島のデザートポイントの大きな波を上手に乗れるようになりたいとサーフィン熱が絶頂期にこれら3種類の病気が立て続けに襲ってきた。始めに目の不調を感じたのは十数年も前のことだけれど、その時のことは今でも鮮明に覚えている。

SECRET GARDENでの仕事は予約管理からゲストリレーション、サーフガイドや送迎の手配やらこのブログを掲載しているウェブサイトの管理まで1人何役もこなしている。そして一番メインの仕事はゲストの皆さんの食事を調理することだ。

食事は高級寿司屋とも思えるようなコの字カウンターの中で私が調理をして提供をしている。お酒を飲みながら食事をしている方々とカウンター越しでお話をしていると私もついついお酒を飲んでしまう。時にはというか6割がたの確率で次の日の朝は少し頭がふらふらするなと言うほどの量を飲んでいる。それなので朝早い時間の波チェックには二日酔いで行くときも多い。

ある朝、宿から歩いて3分もかからないビンギンの丘の上に波を見にいった。前日のお酒が残っていたせいだと思う?歩きながらポイントに向うまで景色がぼやけて見えていた。何も気にすることなく波が見える丘の上にたどり着き数分間波を見ているといつもの二日酔いの時の景色と違う異変に気付き始めた。「なんだか急に見える景色が狭くなったなーと」それで目を擦ってみたり大きく見開いたりしてみたが一向に見える景色は変わらない、なぜそうしたかわからないがしっかりと開いている両目の左目だけを利き手ではない左手で覆ってみたら視界が真っ黒になり何も見えなくなっていたのだ。

ということは「右目は何も見えていない??」右目の視力が消えていたのほんの30秒位だったと思う。その短い時間の間に「目が見えなくなった。大変なことが起こった。」などは一切思わなかった。「大丈夫大丈夫。もし右目がこのまま見えなくなってももう片方の目が見えるのだから生きていける。」と一瞬の間に次に起こりうる人生の選択をしていたのだ。

左目から覆っていた手を放し、しばらくすると右目だけで見ていた景色が徐々に明るくなってきた。この時のことをあとで振り返ると我ながらに素晴らしくポジティブな考えをしたのだなと思う。

今思えばこの時すでに緑内障が始まっていたのだがすぐに目が回復したため、病院嫌いも手伝い診断を受けることもなく忘れてしまっていたのである。

後編

今となっては正式な月日は忘れてしまったが、緑内障の症状が出始めたのは前妻となるHANAと別居をし始めて間もなくの頃からだったと思う。

私が30歳の時に現在日本に住んでいる20歳の長男YUNAが妊娠したのを切っ掛けに結婚することになり、HANAとの間にはYUNAの他に長女AORIKAの2人の子供がいる。別居を始めた当時HANAはビンギンからバイクで15分ほどの場所に間取りも狭く決して綺麗とは言えない2DKの借家を借りて住んでいた。当時2人の子供はまだ小学生と保育園児でビンギンの家に来たりHANAの家にいたりを繰り返していた。

家族全員でビンギンに住んでいたころはゲストの方々に夕食の用意を済ませ、ビールを数本飲んでから家族が待つ母屋に戻っていたのだが別居後はお酒を飲む量も日に日に増していった。夜寝る時は一人きりだし翌朝子供を小学校に送ることも無くなってしまったので、頻度は少なめだがゲストの方々と一緒にマジックマッシュルームを食べたりして夜更かしをする生活へと変わっていった。

始めのきっかけはSECRET GARDENのゲストとして訪れていたのだけれど何度か会ううちに馬が合い今では友達関係の悪友がいる。

そんな悪友とマジックマッシュルームを一緒に食べて気持ちよくなっているときに「嫁さんに浮気がばれたんねー。」と話し始めた。その話を詳しく聞いてみると友人と飲みに行くときに携帯電話を家に置きっぱなしで出かけ深夜過ぎまで飲み歩いて自宅に戻ると奥さんがカンカンになって怒ってたのだ。当時はLINEなどのツールは無かったのでロックを掛けていない携帯を開きI MODEのメールのやり取りを奥さんに見られてしまったのだ。

詳しい内容はここには書けないが、両手では数えきれないほどの浮気や風俗通いをしているのだがうまい事奥さんを丸めこみ、1回だけ友人に誘われてソープランドに行ってしまった。ということで話はおさまったということだった。

当たり前だと思うがその後数か月間は険悪な仲が続いたようだ。「どうやって仲直りしたの?」と悪友に聞いてみたところ、奥さんからソープランドに行ったのだから変な病気(エイズ)をもらってきたかもしれないので検診に行ってという要望に応え、見事病気も何も無いと証明されてから仲直りをしたという話を聞かされた。

でも確かソープランドに行ってもちゃんとコンドーさんは着用だろうし、そんな簡単にはエイズにかからないのではと思うが、さすがにソープランドに行ったことがばれてるのに、「ソープに行ってもコンドーさんをはめたのでエイズにはかからないよ」とは言えないので嫌々だが検診に行ったらしい。

私は病院嫌で体の具合がかなりひどくなるまでは病院には行かずじっと我慢して回復を待つタイプだ、ある日息子のYUNAが40度の高熱が2,3日続いた後、熱は冷めたのだが身体がだるくて歩くのもおっくうだと言うことで私の車に乗せ15km位離れた自宅から一番近くの精密検査など出来る中規模の病院に連れて行ったのである。

息子が検診を受けている間、滅多に来ない病院に来てると言うことも手伝ったのか?悪友と一緒にマッシュルームで気持ちよくなりながら聞いた浮気をしてエイズ検査を受けさせられた話を思い出したのだ。

病院の待合の席から直ぐ斜め前が受付になっていて数人の若い看護婦さんが事務処理などをしながら忙しそうに働いている。病院内でエイズという言葉を大きな声で言うのは少し気が引けたので、HIVテストと小さな声で聞いてみるとこの病院でもできるとのことだった。それでキッドを使用した簡単な検査なので時間はかからないと言う。

「天がひっくり返ってもエイズのはずがないけれど今後のためにもエイズ陰性証明があれば良いかな」と興味本位で受けてみたい気持ちになり、YUNAがデング熱の検査結果を待っている間に同じ病院の2階にある部屋に検査を受けに行ったのだ。

検査は少量の血を摂取してリトマス紙だったのか記憶には無いが色の変化などで反応を見るタイプの物だった。もちろん自分自身がエイズであるのだろうかなど心配もないので笑顔で元気よく検診してもらった。

そして結果は10分と待たない間に出た。

医者や看護婦というのは仕事で慣れてるせいなのか所詮は他人事ということでもあるが検査の結果が悪いほうだとしても顔色一つも変えずに報告してくれる。とりあえず今回の検査結果は陽性が出ているので再度精密検査が必要とのことだ。

少し太めで浅黒い肌をした中年を通り越したインドネシア人の医師から検査結果を伝えられた時は意味が分からず自分の頭の中で理解するまで少し時間がかかってしまった。

2階の診察室を出てからYUNAが待っている1階の待合室に階段を降りていくとき、全身鳥肌が立ち寒気で身体が震えはじめた。しかしYUNAにはHIVの検査が陽性で身体が震えてるなんて絶対に伝えられない。心が揺れ動いているのがばれないように出来るだけ普通の様相を振舞いながらYUNAのもとへ向かった。

先ほどの医師に聞いたところ精密検査はこの病院ではできないらしくバリ島の州都デンパサールにある大手病院で出来るとのことだった。結局デング熱ではないと診断されたYUNAを別居中のHANAの家に送る運転中も先ほど伝えられた信じられない診断報告でまだ動揺はおさまらなかった。検査結果を伝えられるつい数十分ほど前のごく普通の時間が流れていた日常的な景色は一変してしまい周りにいる人々の話し声や景色の色が違うように見えてきた。暑い夏の夕方に今にも雨が降り出しそうな真っ黒の雨雲に包まれてしまったような気分だ。そして映画でも見ているかのように今自分に起こっていることが客観的に見えてきた。

まず今から何をしたらいいだろうかと必死で頭の中を回転させた。バリの病院では緊急患者以外は朝や夕方の決まった時間しか往診してくれない。簡易キッドでの陽性通知なのでもしかしたら間違えの可能性があるかもしれないと少しの望みを託し一刻も早く精密検査を受けくなり無事YUNAにはHIV陽性の言い渡されたことをばれずにHANAの家に送り届け、往診時間なども確認する余裕もなく急いでデンパサールにある大手病院に車を走らせていた。通常渋滞がないこの日のような早い午後だとデンパサールの病院までは1時間ちょいあれば到着する。陽性の検査結果を言い渡されてから今後自分の行動をどうしようかと頭の中で色々と整理をしながら向かった病院の距離は普段の何倍にも感じた。

大手病院の普段はあふれているだろう待合室には人の姿はまばらで、受付は整理番号で管理されていて紙に書いてある番号をアナウンスされると受付で手続きを受けられる。時間外ということですぐに受付に通されHIVの精密検査をしたいと伝えたら今日はすでに終了と伝えられ2日後に来てくれとのことだった。

YUNAのデング熱の疑いで家を午前中に出発したのだが戻った時はもう夕方になっていた。この日は丁度運よくSECRET GARDENに宿泊予約が無く夕食の準備をする必要もなく精密検査を受けずにじっと一人で考えているだけでは何も結果は出ないので、とりあえず気晴らしにウルワツにサーフィンに行ったが予想していた通り全然面白い気分にはなれなかった。そしてこの日の夜はもう立派な大人なのにこの先の人生展開や死ぬことなどを考えていたら怖くなって朝まで一睡もできなかった。

採血検査までの間になぜこのような結果になってしまったのか色々過去のことを思い出したりしていた。その当時私の中の知識だとHIVにかかりエイズが発病するのは10年後の場合もあると言うことは知っていた。なので昨日HIV陽性と診断されたばかりだけれども、実は10年前からHIVで明日エイズが発病する可能性だってあるではないか。もし10年前からHIVの保持者だったとしたら、別居中のHANA、バリに来る前オーストラリアで同棲をしていたVICKY、そしてそのころは恋人関係だった現在の妻KIKYにも私のせいでHIVが移ってしまっている可能性もあると考えた。

性行為も何もない赤の他人なら私はHIVですと告知する事は出来ると思うけれど、もしかしたら私がHIVを移してしまったかもしれない過去現在のパートナーたちに告知できるのか?でももしかしたら私が過去現在のパートナーから移されてしまった可能性もあるのではないのかなど考えていたら加害者意識が急に被害者意識になったりしてもう何が何だか分からなくなってしまったのである。それでとりあえず採血して精密検査を受けるまではこのことは誰にも話すのはやめておこうと決め、まずは身近にいるYUNAやKIKYにHIVを移さないように配慮することにしたのだ。

どんよりと心に宿ってしまった黒い雲は消えずいつもと違うセピア色のように見える景色はまだ続いていた。そんな中、先日時間外で間に合わなかったバリ島一の規模でデンパサールにある大手病院に再度出向いて採血精密検査を受けに行った。

採血検査は私より10歳ほど年上の眼鏡をかけ痩せ味で気さくなマダムの医師の診断で進められた。採血してそれを調べるだけなので特別な技術や時間を要しない,採血はあっという間に終わったので聞きたいことが数点あったので医師に尋ねた。

一つ目はHIV陽性で調理をしても良いかという質問内容だ、HIV陽性でも今日の明日には死なないので死ぬまでの期間はお金を稼いで生活を維持する必要がある。SECRET GARDENには私の料理を楽しみに来てくれてる方が多くいるので知らず知らずに料理をしていて私が話したときに飛んでしまった唾液などが誤って料理に入りHIVが移ってしまわないか知りたかった。この答えはHIVでも調理して提供して折る分には移らないとのことだった。

そして2つ目は今現在はHIVからエイズにならないように薬で抑えて生き続けて行けるようだが、この当時も薬はあったがそれが生涯生き続けられるものなのか、どこで薬を処方したりどのタイミングで飲み何時まで続ければよいのかなど全く知識はなかったので質問した。

日本に帰国すればバリ島よりはハイレベルな治療や薬があることは百も承知だが、インドネシア人とのハーフの子供たちを含めて私以外の家族は全員インドネシア人だ、当然のことながら病気や怪我をしたときはインドネシアの病院で治療を受け日本で治療という選択肢は無い。今回HIV陽性の診断をされる前から思っていたことなのだが私が病気にかかった時に日本人という特権を生かし日本の病院で治療を受けたりするのは家族に対してアンフェアでは無いかと思っていたのだ。だから医師にはインドネシア式でのHIVの治療法などを尋ねたらインドネシアにも薬があるよと返事が返ってきた。

その内容は次の通りだった。インドネシアの国民は国が指定した薬は無料で処方される、しかし自分で薬の種類を指定すると薬代は払わなくてはいけない。その時薬の値段リストなどを見せてもらったが薬により料金は大分幅広い差があった。

そしてインドネシアに住んでいる外国人がHIVの処方を受ける場合。私はこれに当てはまるのだがインドネシア人が薬を処方する料金とは異なりさらに高額が通知された。当時の私の収入額ではとても薬代にあてられる金額ではなかったのはよく覚えている。

この日の採血はバリのこの病院ではなくインドネシアの首都ジャカルタにある病院に送りそこで精密検査をするとのことだった。そして検査結果が送られてくるまでは1週間も時間を要するとのことだ。早く検査結果が知りたい焦る気持ちを抑えてまた来週の予約をして診断室を後にした。

採血の結果を待っている1週間の間に少しづつ自分の心をコントロールし始めている自分がいた。まだHIVと確定できないので今こうやって採血検査をしてきて白黒はっきりさせている途中なのだが。しかし今現在簡易検査でHIVという可能性は証明されているではないか。陰か陽かどちらかというと、陽のパターンだった時を予測しながらこの先将来のことを考えたりしている。本来ならばHIVネガティブが一番理想だが、自分は絶対にネガティブだという変な自信もないしネガティブだと信じていて結果がポジティブだったら相当なショックを受けるだろう。

先ほど説明した通り日本でHIVの治療を受けるつもりはない。それで金銭面でも薬を購入し続けることは不可能だ。HIVの潜伏期間は平均5年とかテレビで見たことを思い出していた。

5年か。この当時40歳ぐらいだった時の私が50歳現在で感じる5年より長く計算していたに違いない。40歳から5年引き算すると35歳、それから40歳の自分を振り返ってみたら結構長い期間だなと感じていたのだ。まだ5年後に死ぬとは決まったわけでは無いのだけれどHIVを持ちながらこの先5年間どうやって生きていくか考え始めた。

まず初めにやらなくてはいけないことはHANA,KIKY,VICKYへHIVにかかったので検査を受けてくれないかと伝えることだった。黙り続けていれば彼女たちにはわからずに私だけ死んでいくことも出来るかもしれないがそれは私の性格上許さない。その次は生きている間はSECRET GARDENを続ける意欲だった。HIVということをゲストに知らせながら営業を継続しそれで恐れて二度とSECRET GARDENに来なくなってもし仕方がない。あとはHIVだけれど子供達にはなるべくスキンシップを持ちながら接したいと、この3つがこの先、自分が生存している間の課題となった。

ここまで考えがまとまると自分が死ぬかもしれないという立場に立たされていても意外にも楽な気持ちになれる。HIV宣告された時の曇り空のような心は消え去り、人々に会ったりすれ違ったりすると普通の生活を送っていた頃よりも笑顔で接し、怪我や病気の人困っている人の気持ちがしみじみと伝わるようになった。

不思議だが死を覚悟した人間の心はとても穏やかな状態になるのだ。

HIV宣告を受けてからはごく普通の生活というかどちらかというと質素な生活をしていた。そんな宣告を受けてパーティーや宴会などに参加して楽しくなれる人なんてまずいないだろう。なるべく人とは会わず家で過ごしレストランで外食することもなくお酒もほぼ飲まずに毎晩早寝をしていた。気晴らしにサーフィンに出かけていたが必死に波を追いかけることはせず波待ちをしながら遠く沖合の水平線を見つめ思いにふけっていた時間が長かったと思う。

そしてこれは宣告を受ける少し前からなのだが良し悪しはその日の体調で変化するが、私の身体は急な頭痛に襲われてフラフラしたり、夜街灯や車のヘッドランプの光を見るとぼんぼりのような形で虹色に見えるようになったり、普段毎日乗り操れているオートバイの運転でさえも身体がガチガチなり思うように操作できないようになることもあった。このような状態をただの頭痛などでなく目か脳がおかしな状態になっていることを自覚し始めていた。

丁度1週間前採血に来た時よりも待合室には人が溢れかえっていた。待合席よりも人の数が多く立ちながら診察の順番を待っている人もいる。病棟の入口に入ると目立つ場所に机が設置されていてその上に置いてある機械のボタンを押し印字の番号が書かれた受付整理番号をとり、番号を呼ばれるまで周辺で待機となる。この日は病院に訪れている人が多いにも関わらず1週間前採血に訪れた時よりも早く自分の番号が呼び出された。

足早に受付に向かい受付番号と居住外国人用の診察カードを提出したあとに前回来た時に医師から渡された採血結果の受理番号が書かれた紙を渡した。内科だったのか何かだったのか忘れてしまったけれど受付に「○○科の前で待機していてください。」と言われた。

そしてこの日は不定期でおとずれる頭痛と目まいがひどく、HIVでもこの先数年は生きるのだし滅多に来ることのない病院にせっかく来たのだからとりあえず見てもらおうと思い、受付の人に頭痛がしてオートバイの運転も距離感が分からず、夜になると光が虹色に見えるんだけどと伝えてみた。受付の人は一度裏にある部屋に引っ込むと1分もしないうちに出てきて眼科に行くように伝えられた。

待合室からは5~6の木製扉が見える範囲にあり、その扉の向う側はそれぞれ違う科に分かれている。丁度眼科と採血の結果報告をされる部屋は隣通しだった。右が採血報告の扉、左が眼科の扉の様だ。

今日ここには医師から採血結果報告は陽性です。と伝えられて自分自身にHIV陽性ということを納得させるために来たのだ。だから眼科で診療してもらうことはHIV陽性ですと聞きに来た目的と雲電の差なので検査結果なんてどうでもよかった。

丁度眼科の前に1席空きが出たので腰を下ろした。HIVということは知っていて陽性と聞いても驚かない。というかもう陽性なんだからと自分に言い聞かせてあるので恐怖心などは無い。でも医師の口から陽性という言葉を聞く準備をしておこうと思い。椅子の背もたれにはもたれず椅子の半分ほどに腰掛けて足をそろえ、しっかり背筋を伸ばして座り。ゆっくり深呼吸をしながら自分の名前が呼ばれる順番を待った。

どれぐらいの時間を待ったのかわからないけれど短時間ではないことは確かだ女性の声でYU OHARAと自分の名前が呼ばれた。とうとうこの時が来たかと少し心が動揺したがすぐに心を落ち着かせた。ここバリの中央病院は日本の病院と異なり人々が話したりしていて静かではない。それに患者数が多く医師看護婦の病院関係者が忙しそうに動き回り人の出入りも多く活気がある病院なのだ。そんなわけでその女性の声がどこから聞こえたのかはすぐに分からなかった。何度か私の名前を呼び出され少しの間目で声の方向を追っていたら左の扉のほうからだった。

採血結果のほうと眼科2つの科に予約を入れたのだけれど、どちらから検診されるかなど順番は全く考えてなかった。私の頭の中にはHIV陽性を医師の口から聞きに来た。それしかなかったので左の扉の眼科から呼び出されたときは、あっそういえば眼科にも行くんだったな。と他人事の様だった。

とりあえず拍子抜けした状態で眼科の扉に入るとサザエさんのようなパーマ頭のおばさんの女医がいた。頭痛やめまいがして光が虹色に見えると簡単に伝えると、見たことない機械で(人生初の眼科だったので)診察を始めた。15分ほど色々な器具を使って診察後におばちゃん女医の第一声はYOU COME TO LATEだった。この言葉の意味が全然分からなかったけれど、別にHIVに比べたらTOO LATEだろうが何だろうがなんでもいいやと思い。TOO LATEの内容を聞きたいとも思わなかった。

しかし診察して病状を聞かない患者もいないし、病状を伝えない医者もいないだろう。ということで診察後におばちゃんから診査結果を聞くと緑内障という病気だと伝えられた。名前はきいたことあるけれどどんな病気かも知らないので質問もせず「へーと」話を聞いていただけ。確かこの時点では右目が38%左目が20%視野が欠けていて治らない病気だと聞いたと思う。それでもHIVと比較すれば大したことは無いと思っていたのでこの時は何にも感じずにいた。この日診察する何年も前から自分の顔を鏡で見て黒目が欠けているのは知っていたのだがもう一つ翼状辺とも伝えられた。これは後で知ったのだが緑内障は早期発見が難しく、視野に違和感を感じ病院に来た時には大分進行しているらしい。それでおばちゃん女医はYOU COME TOO LATEと言ったのだと。

眼科での検診が終わり表の待合室に出ると、数分もしないうちにまたYU OHARAと呼び出しがあった。眼科で一度医師と対面したせいか眼科の診療が終わり待ち時間が少なかったせいかこれから発表される人生重大報告を聞きに行くような緊張感は無くなっていた。

眼科のすぐ右隣の扉に入ると1週間前採血の時の女医が座っていた。私が女医の対面に座ると手早くA3サイズより少し小さめぐらいの封筒のようなものを取り出した。医師が体調はどうですか?とか適当に診断してから最後にあなたはHIV陽性です。と報告されるのかと勝手に思い込んでいたのだが。少し順序が違っていた。

まず初めに封筒を開きその中の検査結果を眼鏡越しに遠目で読んでいる。第三者がみてもこの医師は今初めて私のHIV検査結果の報告書を読んだのだろうと言うことが一目で分かる。少しの間その報告書を読んでから、その報告書を机の上などには置かず一度チラッと私の方を見てから読み上げ始めた。専門用語を使っているのでどういう報告かわからないけれど、血液濃度○○〇やら○○数値という言葉だったのだろう。一項目づつゆっくりと読み上げていた。いつHIVポジティブという言葉出てくるのだろうと耳を澄ましながら聞いていた。1、●●●ネガティブ、2、〇〇〇問題なし、3、●●●45%ノーマル、のような感じで10項目位読み上げられた。すべてを読み上げられてもその結果が何なのか理解できない。そして「みのもんたのファイナルアンサー」のような感じで少しの間をおいて私の方を見ながらネガティブと読み上げられた。

本来ならこのネガティブという声を聞いた瞬間にすっと体の力が抜けてホットするのだろうが、今日この場所でHIVポジティブという答えを聞く用意ができていた私には検査結果がすぐには理解できず間違えでは無いのか?と思ってしまった。

しかし診察が終わり受付で支払いを済ませるころには9日前の簡易検査で陽性が出る前の自分に戻っていた。

 

HIV陰性が言い渡されてから1週間もすると以前と同じごく普通の生活戻っていた。安心したせいだろか?そのころにはHIV検査報告ついでに診断された緑内障のことが気になり始めていた。インターネットで調べていると緑内障になる原因が3つほど書かれていた。その一つに「眼圧が急に上がる急性緑内障」があり薬物やステロイドなどを使用して急に眼圧が上がり緑内障になるとのことだった。

急性緑内障の原因をすべて読み終わる前には「そうだったのか。あれのせいだな。」とすぐに原因が思い浮かんだ。このころ頻繁に食べていたマジックマッシュルームせいだ。

マジックマッシュルームは視聴覚変化が起きものがゆがんで見えたり幻覚のようなものが見える。なんでそのようになるのか?少し考えれば毒キノコの成分で目の神経を刺激しているからそのような現象が起きることはすぐにわかった。

そしてマジックマッシュルームはこの文章を読んだ日以来今現在でも絶対に食べない。緑内障になってから10年以上経つが、その間にいろいろ調べていたら私の祖父も緑内障だったことを5年前に亡くなった母親から聞いた。ネットで緑内障を調べるとのどの情報にも緑内障は遺伝する確率が高いと書いてあった。

絶対に治らないという緑内障だけれど、もしかしたら緑内障でなくもう一つの目の病気翼状辺のせいでおかしな症状が出ているのではないかと無理やりこじつけ、もし翼状辺を直せば元のように戻るのではないか?と考えていた。

なぜそのような考えになったかというと、このころには中学校を卒業して以来人生を掛けてきたと言っても過言ではないサーフィンが急に調子悪くなりかなり落ち込んでいたのだ。少しでも目が元に近い状態に戻れば、また調子よくサーフィンができるのではないかと強く思っていた。

そこで緑内障を診断した医師のところにもう一度診察に行くことにした。まずは緑内障の診察がされ眼圧を図ったりした。この時はまだ異常に高い眼圧が続いてた。この時医師に翼状辺の手術がしたいと申し出ると手術は出来るけれど緑内障は治らないですよ。と言われたがどうしても試してみたかったので手術の予約をして帰った。

翼状辺の手術は私一人でデンパサールの病院に行き。まずは眼科に行くとそこで診察だけして本格的な手術室の方へ連れていかれた。医師や助手たちが5,6人程いた。誰と来たんですか?と聞かれて一人で来たというと皆不思議そうな顔をしていた。(インドネシアでは病院に診察だけ受けに行く場合でも家族や友人と行く場合が多い、ましてや手術する時には100人中99人は付き添いの人がいる。だから1人で手術を受けに来た私が不思議に見えたのだろう)

翼状辺は目に麻酔を打ち角膜をはがして悪い部分を切り取りまた縫い合わせるという簡単な手術で30分もしないうちに終わった。手術後は薬をもらい清算を済ませてそのまま帰宅だ。しかし清算を待っている間に目の麻酔が切れはじめ目を手で押さえて下を向いてないと痛みに耐えられなくなってきた。病院には一人で来ている、それもオートバイでだ。こんな状態では絶対に運転できないと思いバイクは病院に置き去りにしてひとまずタクシーで帰宅をした。

翼状辺の手術後の目はハツカネズミのような真っ赤になりそれが1か月ほどは引かない。術後1週間ぐらいは痛みがあり定期的に痛み止めで痛みを抑え眼帯を着用する。サーフィンは2か月ほどしてはいけないと言われたが、このころは「若かったのかバカだったのか」我慢が出来ずまだ少し目に痛みを感じながらも術後2週間でサーフィンを開始していた。

翼状辺の術後2か月ぐらいのには黒目の上にかぶさった白目の部分も綺麗に取れて普通の目に戻っていた。しかし医師から通達されたよう視野や虹色現象などの不調は何も良くなっていなかった。

このころはどうしても元のようにサーフィンがしたいと躍起になっていた。「この前まではビンギンの一番ピークで波待ちをしているセット波を乗るメンバーだったのに」それが今では初心者が待つような場所で波待ちをしている。サーフィンするたびに落ち込み、この先なにを目標に生きていけば良いのだろうかと考えたりもした。

翼状辺の手術が終わっても定期的に緑内障の診察には通っていた。点眼を数か月打ち続けたら安全数値の眼圧に下がり。あとは眼圧が上がらないように点眼などで緑内障と付き合っていくか、眼圧をあげないように手術をする選択もあった。前途の通り手術をしても絶対に症状は良くならずとりあえず当分の間は現行をキープのみだ。

翼状辺手術から数か月後には緑内障手術を受けていた。この手術は機材と腕を必要とする特殊な手術なのでバリ島の病院ではできないとのことだった。自分でネット検索をしていたらインドネシア国内でも指折り有名な目の専門病院がジャカルタにあったので飛行機に乗り2泊3日で手術を受けに行った。勿論のことながら手術後に目の調子が良くなることは無かった。

すでにこのころからは目は治らないと言うことを自分自身受け止めていた。道具を使えば少しでも調子よくサーフィンが出来るのではないかと考え始め、帽子やサーフィンサングラスなど着用してみたがどれを使用してもさらにサーフィンの調子は悪くなるだけだった。

目が悪くなり少々体調が調子が悪くてもサーフィンの頻度は以前と変わらなかった。しかし一つ変わったことがある。ショートボードを乗る回数が減りテイクオフが易しくできるファンボードに乗る回数が増えていったのだ。ビンギンのピークからセットは乗れなくなってしまったがスタイルを変えながらも大好きなサーフィンを続けていた。

緑内障手術から1年もしないうちだと思う。目の調子が良くなることは無かったが悪化もしていなかった。もう前のような波に乗れなくなってしまったけれどそれなりにサーフィンを楽しんでいた。だが、この頃また目に急な異変が起き始めたのだ。

緑内障治療後は虹色に見えていた光は通常の光に戻ったのだが、今度は光が曇りガラスの向こう側にあるように曇ってぼやけて見えるのだ。緑内障という病気は病状が進行すると最悪の場合失明するそれも急に失明するのではなく少しずつ視野が狭くなり最後は視野が無くなり真っ暗になってしまうらしい。

そんな病気を持っていると少しの目の変化に敏感になってしまう。またデンパサールの病院で診察してもらうと今度は「白内障」と告げられた。右の片目だけが曇りガラスのような視界で左目は普通の視界。経験した人にしかわからないと思うが、そういう状態はすごく疲れてイライラするのだ。それと何度も何度も目がおかしくなり病院に来ていることにもイライラしてサーフィンも調子悪いしイライラしてこのころは人生すべてに対してイライラしていたと思う。

そんな状態だったので思い浮かんだことは「すぐにでも手術して曇りガラスを取って欲しい」というあまりにも馬鹿げた考えだった。しかし直後にネットでスラバヤにある眼科が有名な病院を見つけて予約を入れていた。あとで思い返すとこれが取り返しのつかない失敗となったのだ。

スラバヤの病院はバリ、ジャカルタで手術したとき同様検診をし翌日午前中の手術だった。手術前に糖尿病持ちですか?レンズ視点は近、中、遠どれがいいですか?と聞かれたので良くわからないので中にしておいた。

手術時間は短く緑内障の時と同じ30~40分ほどだった。そして術後の午後だったと思う?最終診断して終わり。その診断の内容で視力の検査をする。視力検査の時に日本と同じで0.1~2.0までありそこに書いてあるアルファベットの文字を読む。何千回も白内障手術をしている医師なのだろう手際よくハイこれは何ですは?ハイこれはと大きなアルファベットからどんどん小さなアルファベットを読ませる。しかし0.6位のところで文字がかすんで読めないのだ。でもじっくり見れば見えないことも無い。医師は見えるよね?というように私に催促してるような感じがした。それで何故か焦ってるようにも見えた。結局ちゃんと見えていたのは0.6位だったと思うがそれで最終診察が終わりそのまま飛行場に向かいバリ行きのフライトに乗った。

スラバヤ~バリはわずか30分の飛行でまだ日が昇っているうちに到着した。空港か自宅に帰る途中、曇りガラスのような鬱陶しさは消えたけれど、なんだか目がおかしいな~と感じながらバイクを運転して帰った。

数日間立っても目の違和感は変わらない。片目ずつつぶって景色を見たり、夜光を見たりして自分で目の調子を確かめていると、数々の不具合を発見した。

まず右目と左目で見た色が違う色に見える。

それと右目、左目で同じものを見ると。右目だけで見た場合横幅があるように見えるのに左目で見たときは縦の方が長く見えたり物の形が異なって見えていた。そして手術前より右目の視力が大分落ちていたのだ。

イライラしていて白内障の知識がないまま即手術を実行してしまったが大失敗だったかも知れないと思い始めたので、あとで色々と調べたみた。それでわかった事は、現代の医学での白内障の手術は簡単で水晶体を取り除き人工レンズを入れるので最低1.0の視力が回復するとのことだ。しかし緑内障がある方はうまく結果が出ない場合がある。と書いてあったのだ。それはまさに私の事。緑内障持ちのため白内障手術は失敗に終わった。

ここはインドネシアだし、あとでどーだこーだ言ってもどうにもならないし、そんなこと言うつもりもない。でも手術前に医師が緑内障はありませんか?と聞いてくれていたら悪い目がさらに悪くならなかったのにと思うと悔しい気持ちが残る。そして手術をしなくても点眼や薬でも白内障の症状を抑えることも出来ることも同時に知った。

最後の神頼みで第二オピニオンというやつを聞いてみようと、行きつけになってしまったバリの病院に白内障手術はやり直しできないのと聞きに行ったら失明のリスクがあるけれどやりますか?と返ってきた。

本来ならば今でも続けて定期的にいかなければいけない緑内障の定期健診も毎日点さなければ点眼もやっていない。大好きなサーフィンもできるし山にも登れるし、このまま死ぬまで目が見えなくなることは無いだろうと思っている。