ナンガスの海でいつも一人だけ。

東京に住んでいた中学2年生の時、ハワイのaipaや日本ではgoodessなどサーフィンメーカーのシャツやトレーナーを着るのが流行で、年上のお兄さんたちはフォルクスワーゲンのビートルにボードキャリアをつけて、潮焼けした茶色い上の毛を長髪に伸ばしている。そんなのに憧れて始めたサーフィンだけれど37年過ぎた今もまだ続けている。

私のサーフィンの歴史で高校1年生の夏(高校は行ってないけれど。)に茅ヶ崎に引っ越しをするまで、東京から電車に乗り海まで通っていた2年間以外は、常に海の近くに住んでいる。

茅ヶ崎でも東海道線を挟んで海側と山側に分かれる広範囲なのだが、サーフィンをする目的で引っ越しを決めたのでサーフポイントになるべく近いアパートに住んでいた。そこからは堤防沿いに割れるレギュラー波の今はなきカボチャと言うポイントや西浜、ショップ下と言うポイントにも歩いていける距離だった。

茅ヶ崎から次の居住地オーストラリアには10年間住んでいたが、オーストラリアという国は人口の殆どが海岸沿いに住んでいる。特にサーフィンが盛んなゴールドコーストは海岸に沿って南北に町が長く、海まで歩いていける距離の物件がゴロゴロあり海の側に簡単に部屋を借りられた。

茅ヶ崎の時もオーストラリアでも、海までは歩いて行ける距離だったが、国道や車道を横断したりしなければビーチまではたどり着けなかった。

その点バリ、ビンギンの家は家からポイントまでは直線距離200m~300m程を車やアスファルトを見ずに行け素晴らしい立地条件だった。

もう何十年もの間サーフィンに行くのに車などの交通手段が必要ない場所で過ごしているが、今スンバワで仮住まいの家は、「今まで住んだ場所で一番海に近い記録」を更新した。

家の庭の出入口から一歩出ると海まではこの近さ。画像では分かりにくいけれど、沖合にはグーフィーのポイントブレイクが割れている。レイキー地区ではレイキーピーク、ペリスコープが2大人気ポイントで、このナンガスというポイントは大波の時にサーファーが集まる以外あまり人気が無い。

コロナの影響もあるけれど今日も誰もサーフィンはしていない。もう40日ここにいるけれどナンガスの海でサーファーと遭遇したのは一度だけだ。私がベストな時間帯にサーフィンする回数が少ないせいもあるかもしれないが、いつも一人でサーしている。一級品の波では無いけれどインドネシアのリーフブレイクなのでそれなりに楽しめる波。上の画像では波のサイズ感がわかりにくいがセットは頭ぐらいだ。

当たり前のように誰もいない海でサーフィンしていると、もう皆が必死に波に貪り付き、怖い顔をしながら、「どうだ今の俺のチューブを見たか?私も僕もサーフィン上手いでしょ。」大人も子供も女もハイエナの様に波に飢え、ローカルサーファーは「我々はローカルだぞ」とオーラを出しているバリの海には、もう戻れなくなってしまう。

近年のバリ島では移住してきた外国人サーファーの子供、裕福になったローカルサーファーの子供達、2世代目サーファーが家族ぐるみで「それゆけカノア五十嵐、ジョンジョンフローレンス」とコンペティション目指し励んでいる。そんな彼らが成長した頃は海は一段と激しく混雑し、自分のホームポイントでさえオヤジサーファーには全く乗るすきもなくなってしまうことが予想できる。

そして初心者やオヤジサーファーでも乗れそうな2級ポイントには、私のように一級ポイントで波ありつけないサーファーが集まり、それに加えてヨーロッパや中国からの初心者サーファーが追い打ちをかけるようにゴッソリと詰めかけ、芋洗い状態になるだろう。

サーフィンは楽しい遊びなのでやめて行く人が少なくサーフィン人口は増える一方、今ここスンバワの誰もいない海でサーフィンできている事は凄く貴重な事かもしれないなと思う。

バリから輸送したバイク達。雨ざらしでも炎天下の中でも頑張って動いてくれている。日差しが強いスンバワでは耐久年数が短くなりそう。

オーダーメイドで作ってもらったBBQ台。コロナ頑張って開けて皆がきたらヤギを解体してこれで焼くぞ。

今日のお昼ご飯は小エビの唐揚げ。バリの粗塩を振ってカリッと、美味しい。

さて午後の現場チェックに行き夕方はまた一人でサーフィン楽しみます。